遥か前に火垂るの墓について記事にした記憶がある。今回は違う視点で語ろうと思う。恋は盲目という。それは僕にも経験あるからわかる話がたくさんある。
恋してると視野が狭くなるのよね。特に思春期の頃は。相思相愛で好きな人がいる時にできるだけ周りのモブキャラ(何しろ自分たちが主役と考えてるから周りはモブキャラに見える)を排除してその人との時間を独占したい。
そしてその好きな人をアゲるために他の人をサゲたり見下してしまう。自分ら2人だけでこの世界を独占したい。ただこの病理、どこかで無理が祟っていつか頭打ちになりいつかは冷静になってこれは駄目だと気づいてしまう。
何故なら周りの支えがあって生かされているのだ。そこに気づいてからようやく大人の恋がはじまると思う。そんな前振りをした上でようやく火垂るの墓の話に移行したい。
僕が火垂るの墓に感じるのは清太の節子に向けられる眼差しというのが妹に向けられたそれとは違いあまりにも恋人みたいだという話。清太は節子に恋していたのではないか。
この映画は近親相姦で心中モノだという裏設定があると語られてるから実際そうなんだろ。ていうかどんだけこの映画に色んな要素放り込んでいるんだ。オレじゃなきゃ見逃しちゃうねの人が何人も居ないと見逃す設定の数々がある。
清太は作中の大人たちには全く心を開いていない。頑なに大人たちの親切心も拒絶してしまう。だが唯一節子にだけは心を開いている。というより節子だけしか見ていない。この世界にまるで節子と自分だけしか存在していないみたいだ。
大人たちの言葉に耳を傾けないし心の底では見下していたのかも知れない。節子以外にはガン無視を決め込んでもおかしくないくらいの勢いだ。清太は節子に恋していた。盲目だった。そう考えると思春期の僕のような清太の愚かさも説明がつく。
ほいで妙に色っぽいなと思ってたのだ。節子の仕草とかその居様が。そうなると合点がいく。裸で海ではしゃいでたり2人だけで暮らして新婚みたいに楽しんでる姿とか。節子が死んだあとに走馬灯のように思い出が回想されるが裸で走り回ってる節子が映し出されていたり。
アレはそうだったのかと妙に納得した。節子に感じたエロスの数々は見えないように散りばめられた近親相姦の匂わせだったのだ。ほいで案の定生活は破綻して心中という流れである。
全てを排除した2人だけの国でひっそりと暮らしたい願望が清太にはあったのではないか。叔母さんの嫌味がトリガーになって2人だけの生活になった描かれ方をしてるが実はそれがなくともそんなことになっていたのかもしれない。
何故か2人だけの生活は楽しげだ。そう初期の頃は。生活が破綻するまでは。蛍を自分たちだけの住処の穴の中で飛ばしたり。そう清太と節子が2人きりで居る時はどんな境遇でも楽しんでる場面が映し出されてる。
まるでこの生活を望んでいたみたいだ。好きな人と2人きりで一緒にいれたらどんなことでも楽しいし世界がどうなろうと関係ないと思える思春期の頃のあの恋愛感情に似ている。
そして節子だけが先に逝った。拠り所を失った清太も跡を追うように逝く。原作では妹だけが亡くなったのでそこは相違点である。あと原作ではそこまで妹を大事にしてなかったらしいが。
亡くなったあとも未だに霊として彷徨っている姿が映るがまるで恋人のようにベタベタとくっついている。やはりそうだったのだなと思わされる。