この間、ふと思ったことをそのまんま書き移そうと思う。みうらじゅんのマイ仏教という本を最近買って読んだからそんな思考になったんだろう。その本から縁に触れて触発されたのだ。
僕だけじゃなくて誰だってそうだけどイマと20年前は違う。僕のリアルな話になれば姉ちゃんは結婚したし親父は亡くなったし、高校生時代の友達と縁を切ったし恋人と別れたし僕がフリーターから正社員に正社員から役職に。
20年前にカタチ取っていた全ては姿を変えてあるものは消えたりなくなってしまったり何一つとして同じものはない。20年前にはイマのツイッターのフォロワーさんと交流なんて考えられなかった。全ては変わってしまった。
それはカタチあるものが変わっただけでなくて僕の心ですらそう。たとえばの話だけど…亡くなった親父が蘇って帰ってきても僕は喜ぶだろうか?かなり家族にも迷惑かけたのは事実だし大変としか思えない。
あの時別れた恋人に今もしも会って好きだと言われても僕は頷くだろうか。イヤ、多分頷いたりしない。僕の扱いを大切にしなかった友達とあの時縁を切ったし後悔してないがまた戻ってきて仲良くしようと言われても僕のその友達への心は冷めきっていて戻る気持ちはない。
それよりも今更という気持ちでしかない。あの時上手くいかなかった出来事の全てに後悔なんて全くない。それにイマ僕を取り巻いてる新しい人間関係だったりはその時終わりを告げた人間関係があったから始まったのだ。
そりゃカタチあるものと思っていたものが壊れて姿を消すのは悲しいよ。僕にだって執着はある。イマ抱えている全てのものは消えて欲しくないしずっと離さずにいたい。でもそうやってまた一つ消えるものに向き合って僕らは強くなっていくしかない。
そんな恋人だったり友達だったり同級生だったりと疎遠になってもう一度会いたいとも思わないけど…確実に言えるのがその人たちがいたから僕は成長できた。
色んな葛藤や悲しい気持ちは分かり合えない空しさやたくさんの気持ちを教えてくれた。イマの環境がまた20年後にどうなってるかはわからない。僕はまた新しい人間関係を構築してるかもしれない。
恋人と一緒になってるかもしれないし離別してるかもしれないし…それは誰にもわからない。全ての状態は仮の姿でいつかカタチを変えて終わりを告げるものである。