ゆるゆるサラリーマンのよろずブログ本舗

この前までハードに生きてきたが、ゆるく生きようをモットーに生きてるユルリーマンのブログ。

幸せについてのちょっとした考え方

幸せとか幸福とかキラキラってどこか胡散くさくて好きじゃないんです。いや、僕も使うけど口にすることはなくて文章でならギリギリセーフで使うくらいの感じ。

 

ちなみに僕は幸せとか幸福を追求しない方が良いと思っている派閥があるとしたらそっちに入っている。

 

幸せってちょっと怖いやん。怖いというかもう色んな好きなモンや好きな感情や好きな人とか好きなことを寄せ集めて自分の世界を構築して…

 

自分の世界を自分の色に変えて言わば執着の最たるモンというか楽しいことや良かったことだけを集めた状態っていう感じじゃない?でも死んだら全部パーなんだよって。

 

そんなにいっぱい抱え込んだままやと死ぬ前に絶対にジタバタしそうでイヤだ。今や廃れた宗教だけど遥かむかしに宗教が生まれた背景は物理的にも心理的にも科学力が不足していて満たされていない成分をなんとか補う役目だった気がする。

 

何より死が隣合わせだった当時のインドから死を克服するために仏教が生まれたのも意味があるような気がする。日本に仏教が生まれたのも混乱の乱世をなんとかしたいという一心だったような気がする。

 

んで科学が発展して、科学の方が万能やんということに人類は気づいた。チマチマと神に祈るより科学力を発展させてみんなが富める方向に進んだ方が良くねーかと舵を取るようになる。

 

結果として特に日本なんかは幸せすぎるというか幸せのハードルが上がり切った国になってしまった。特にバブルなんかをなまじ経験してしまって幻影を追い求めて。

 

こんなに満たされたいい国になってしまって死亡率が減って色々抱え込んで好きなモンに囲まれてしまったら死そのものがますます遠くなりその執着心ゆえに死への恐怖が広がるだけになってしまった。幸せの追求は死への恐怖の増加と表裏一体である。

 

いつ死ぬかわからないチョウハン博打のような治安で貧困な国だったら死そのものへの恐怖はあまりないのかも知れない。それこそ死の恐怖に関しては身軽で何も持っていない方が恐怖は少なくて済む。

 

修行僧のお坊さんは妻帯も子供も作らないのも修行という。妻や子供が居ると現世への執着が生まれるからである。愛別離苦という現世の地獄というか苦しみの一つだからだ。

 

あとは幸せのハードルが上がりきったという話だがこれはどこから来たのだろうか。高度経済成長を支えたメディアやマスコミや企業が広告を打ったのも要因かと思われる。

 

企業はモノを売ろうとバンバン広告を打つ。明日の生活が180度変わる○○をみんなで買おうとか整形してもてまくりで弱男を卒業しようとか謳い文句をつけて。

 

確かにパソコンにネットが普及した時には革命が起きたと思った。それと同じように高度経済成長期に所得が倍になるよとか自分の中の情念みたいなんを刺激されて。

 

それが現実になってバブルを迎えたりして金持ちになって期待値のハードルは上がりまくって。バブルが崩壊した後も期待値のハードルはが下がらないまんまで。ホンマは朝起きて飯食って寝るくらいの感じで幸せを感じられるはずなのに今やそれだけでは満たされなくて。

 

僕らは追い立てられて競争に駆り出されて金持ちにならなきゃいけないとか嫁子供がいなきゃいけないとか自然にあの頃と同じようなハードルの前に立っていてそれが達成できなきゃ幸せになれないと勝手に思い込んでしまっているのだ。

 

だけど貧しくてもスマホ持ってる人もたくさんいるし日本に住んでいて餓死する事なんてほぼない。これだけ満たされた国にいてまだ幸せじゃないと感じるのはちょっとしたことでは喜べなくなった僕らの期待値の高さ故である。

 

僕らの期待値をくすぐる広告やマスメディアがあおりにあおった故とは皮肉な話である。それでみんなモノを買ってモノを売って満たされてきたんだから仕方ない話でもある。

 

ホンマは良かったこととか好きな人やモンばかりまわりに寄せ集めないで嫌いな人とか不快なモンもわざと置いておいて上手くいかない事も気分が優れないのも同じくらいにあった方が幸せなのかも知れない。まぁいいかと許せるくらいの。

 

幸せのぬるま湯に浸かっていたら何が幸せなんかわからない。良かったことは続きすぎたら当たり前になる。女の人が尽くしてくれてもだんだん当たり前に感じて何も感じなくなるのと同じ。

 

考えがまとまらないまんまに書いてみたが別に胡散くさい説法をしたいつもりではなかった。ただ幸せについてライトに気軽にスナック感覚で思うことを述べただけだ。