自分探しみたいな言葉がいつからか言われるようになってきたがそもそも自分なんて探して見つかるものなのか。
まあ数行で論破するつもりはないけどみうらじゅんさんも言ってるように仏教では"無我"という概念があって自分自身には実体なんてないのだ。
あるいは実体があるとしたらこのどうしようもなく怠惰だったり淫乱で変態だったりずる賢くて変な妄想ばかりするありのままの自分自身だったりする。
このどうしようもない自分自身は対外的には外にいる際にはナリを潜めている。何故なのか。その自分自身をあるがままに解放してしまえば社会の落伍者にならざるを得ないからである。当たり前だ。ありのままに発動してしまえば色んな人を傷つけてしまう。
子どもがいつまでも無邪気なままでいられないのはありのままでは社会で生活できないからである。子どもは残酷で平気で面と向かってブスとかバカと言えてしまう。そしてそんなことは思っても隠して生きた方がいいといつからか気づいてしまうのだ。
僕らは知らず知らずに仮の仮面を被って生活している。ペルソナと呼ばれるものだ。この言葉はゲームのタイトルにもなっている。余談だがペルソナ4は名作なので是非プレイして欲しい。
ゲームのペルソナをプレイしたらわかるけどこのゲームでは若者たちがそれぞれの闇を抱えていて普段はナリを潜めているソレが実体として現れて襲いかかってくるのだ。
若者たちはその普段隠している素顔のペルソナがとんでもなくいやらしい姿やオカマみたいな姿で最初はこんなの自分じゃないと認められなくて苦悩するが次第にそれも本当の自分だと向き合うようになる。
この認めたくない自分ってのが本当の自分なんだろうなと僕は思う。自分探しはそんな自分は違うとどこか実体のないここではないどこかにホンマの自分がいると思い込んだ足掻きにしか思えない。
ジキル博士とハイド氏みたいにあるいはドラゴンボールのピッコロ大魔王と神様みたいに自分の中に潜んだ認めたくない自分を無理矢理分離して違う自分になろうとしても無駄である。
どこまで逃げても自分の影が追いかけてくるようにそんな自分も自分なのである。陰と陽があるように物事には必ず光と影がある。
出来るだけ対外的にはこのどうしようもない自分を出さないようにするしかないが、そんな自分も認めたいと思う。それも普段はペルソナという仮面で押さえているホンマの自分の姿である。