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2度と観たくない名作"火垂るの墓"高畑勲はこの作品に何を仕掛けたのか考えてみた

アニメとして完成度の高いはずなのに2度と観たくない映画があるんす。それが高畑勲火垂るの墓ね。たまに宮崎駿と間違われてるけど彼はとなりのトトロ担当やった。

 

彼は一体この映画で何を仕掛けたのか何故2度と観たくないと思ってしまったのか(僕だけじゃなくてそう感じてる人は多い)ちょっと考えてみようと思う。

 

意外にこの映画、最初からネタバレしてるんよね。だけど最後まで観れてしまう。普通ネタバレすると観る興味が薄れそうなところだけど。物語は主人公の清太が僕は死んだという自分で語るところから始まる。

 

んで、僕も学生時代に漫画を描いていた事もあって高畑勲が何かを仕掛けたのはわかるんよ。僕も見てる人を一気に物語の世界に引き込むためにこの手法を取り入れたりしていた。彼は物語を展開する上で視聴者にちょっとしたストレスを与えたのだ。意図されたモノとして。

 

清太の母親が凄惨な死に方をしたり叔母の家に住み着く事になるけど叔母と合わずにギクシャクして結局は叔母の家を飛び出す事になったり。そこに観てる我々はストレスを感じるのだ。で、そのストレスはちょっとしたスパイスとなって我々は物語の世界に引き込まれるのだ。

 

このストレスはいつか解消されるだろう。僕らはそう淡い期待を込めてこの作品を最後まで見届けてみたいと思わされるのだ。作品で受けたストレスは作品の中で解消したいと願うのである。この清太と節子はこのまま何処かでいつか報われると淡い期待を込めて見てしまうのである。

 

ジャンプやサンデーのアニメなら…例えばワンピースを例にしてみよう。ワンピースでも我々は主人公の仲間たちが悲劇に見舞われたり街の住人が悲しい思いをさせられているところにストレスを感じる。同じようにこのアニメの中でも作者は我々にちょっとしたストレスを与えて物語の世界に引き込み最後まで観たいと思わされるようにしているのだ。

 

ワンピースの世界では主人公たちはジャンプヒーローという事もあり必ず奇跡を起こして勝つのだ。我々はこの状況で彼らがどんな奇跡を起こすかに固唾を飲んで観てしまう訳である。そして作品で受けたストレスはルフィたちの勝利で解消されるので我々はスカッとするのである

 

ところがジャンプヒーローの必ず最後に勝つスタイルの映画に慣れた我々の願いは火垂るの墓の前で脆くも崩れさるのである。主人公はただの14歳の少年である。奇跡なんて起こりうるはずもなく我々は後半に待ち受けるバットエンドにストレスを解消されないままに終わるのである。

 

小さなストレス解消はあるにはあったと思う。一緒に海に行った時の楽しそうな思い出とか防空壕の中で蛍を一斉に放ち嬉しそうな彼らの姿とか。

 

だがその幸せは長く続かない。妹の節子は死に兄の清太は自分で節子の遺体を火葬する。このあとで清太は雑炊やスイカを食べたらしいがwikiによると妹の世話をもう見なくて済むと内心ホッとしたからとの事らしい。

 

僕も人の死は悲しみだけじゃなくてホッとしたという気持ちはよくわかる。僕の親父が死んだ時に散々泣いてたウチの姉ちゃんがポロっとホッとしたと言っていた。僕、それもわかるねん。

 

散々に親父の介護とか面倒見とかでウチの家族はめちゃくちゃ振り回された。本当にこれ以上振り回されたらこっちがおかしくなるところだった。だからホッとしたという感情はホンマやと思う。おかしいけどこれは経験したモンしかわからない。死は綺麗事だけじゃない。

 

そんな感じでストレスを置いてったまま我々をエンディングへと導くこの火垂るの墓。ストレスが解消されないのがわかってるからもう一度観ようと思えないんだろうな。