ゆるゆるサラリーマンのよろずブログ本舗

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いっぱい傷ついて嫌な思いしてあの日のうおさん少年は大人になった

今になって思えば大人と中学生の決定的な違いは何かって一言でいえば何だろうか?世の中全てのモンが手に入らないってのと全部が思い通りにならないのを気づいているかいないかってのがあると思う。

 

諦めるって悪い言い方に見えるけど諦めるって行為が自分を楽にするために必要な場合もあるって大人になればわかる。

 

あの中学生の頃のうおさん少年(僕のこと)は何でも願えば叶うと思っていた。実際には半分正解で半分は嘘だ。願ってもどうにもならないことが世の中にはたくさん存在する。

 

しばらく仲良かった友達に突然裏切られて半ば絶交したこともある。だがまたヨリを戻した。僕は彼を信じてまだ大丈夫と勝手に判断した。しかし裏切るヤツは何度も裏切る。何度も裏切られた。

 

大人になった今なら話し合ってみたって分かり合えることない人だっているんだと今ならわかる。無駄にあがいたって駄目なのに取り繕ってもイケてるようにしても空しいだけ。

 

分かり合えないこと自体は悲しみではない。そもそも人は分かり合えるようには出来てないと思う。僕の意見とか思想は僕のモンであって人のモンではない。それは人も同じ。人と意見が合わなくてもそれは極めて健全な反応である。

 

だけど中学生の頃の僕は話し合えば誰とでも仲良く心通じ合うと思っていた。その結果散々な目にもあってきた。いっぱい傷ついて嫌な思いして学んだのだ。

 

僕は自身の護身術のために怒りや反論や戦うという武器を身につけていた。出来るだけ平和的解決で行きたかったがそれが叶わないならやむなしと悟った。

 

自分で自分を防衛するのは悪くない。そもそも話し合ってもわからない相手もいるんだ。理屈やロジックや常識が通じない相手ももちろんいる。そんな相手に純粋無垢なまんま騙されたり泣き寝入りする方が馬鹿をみる。

 

そうやってあの日のうおさん少年はどんどん大人になっていった。すれ違ったりもがいたりしながら。裏切りや残酷な場面や悲しみを知り何か自分の殻が破れて大人になっていたような気がする。大人になるってそういうモンじゃないだろうか。