ゆるゆるサラリーマンのよろずブログ本舗

この前までハードに生きてきたが、ゆるく生きようをモットーに生きてるユルリーマンのブログ。

誰とも関われない絶対的な孤独。自分の存在を見届けてくれる見届け人の必要性に思う。

今更ながら元首相への襲撃事件の容疑者のことを色々調べたんですよね。同情も禁じ得ないがひとことで言うと絶対的な孤独ってのがかなり大きいなと。

 

会社でも人と雑談したりせずに黙々と仕事して友達とも遊ぶこともなくて…ただただ孤独の中。本来なら保護してくれる母親も家族じゃなくて宗教を選んだ。これは過酷な話で。

 

こういう人ってたくさん居ると思う。今の世の中には。自分はここにいていいんだという必要性とか自分に関心を持ってくれる繋がりがないと不安でしかないからだ。

 

昔の方が確かに野蛮で荒っぽい時代だったが人と人との繋がりはあった。塩とか醤油とか貸し借りしてお互い助け合う共同体みたいなのが確立されていた。足の引っ張りあいもあったかも知れないが。

 

子どもの保育も共同体の中で行う感じで誰もが望めば結婚くらいは出来ていた。今や結婚自体も崩壊まではいかないが贅沢品と化しつつあるので望めばなんて流暢な時代ではない。勝者が勝ち取る権利になりつつある。

 

子どもの保育も共同体が崩壊してお金を払って保育機関に頼る形式に変わった。共同体への信頼からお金に変わりお金さえあれば保育も事足りる時代になった。味噌や醤油を貸す隣近所のやり取りも信頼から発生したものだがそれがスーパーやらコンビニに置き換わった。

 

人との繋がりが希薄になったおかげで人から干渉されずに済むようにはなったが孤独な人は孤独のままになってしまった。自分から望んで人と関わらないなら誰からも存在しなくなってしまうのだ。完全なる無である。

 

あたかも自分なんて存在しないみたいに。自分から目立ってアピールできる陽気なキャラなら人とも繋がる事は容易だろう。結局は生来の性格由来が頼りになってしまう。出来ない人はずっと人と繋がれない。

 

繋がらなくても生きていけるとは思う。だけどこういった元首相に襲撃した容疑者や最近の凶悪事件に関する人が凶行に走る背景には孤独があるのは忘れてはいけない。

 

昔の人は皆婚が進んでいたから孤独なんてのはなかった。必ず見届けてくれる存在が身近にいた。そこがすっぽりと抜け落ちたまんまで結婚が贅沢品になって結婚は誰もができるもんじゃなくなり孤独感は増すばかりである。

 

なので結婚にその役割を求めるのは難しいと僕は考えてる。ネットの5ちゃんねるとかXとかでもいいしユルい繋がりでもいいから繋がっていたいというのは動物としての本能からの行動ではないだろうか。

 

よく考えたら赤の他人になんで私生活の一部をバラして繋がりたくなるのか。ちょっとでも人と繋がりたいとか自分の物語の見届け人になって欲しいという気持ちがあるんじゃないかな。

 

だが5ちゃんねるやXでもフォロワーからの反応が必ずしもあったり人と繋がれたりそこのコミュニティで上手く行くかどうかは別問題であることも明記しておく。

 

そこでもうまくいかない人が凶行に走る場合もある。難しい問題である。